こんばんは。管理人 SMEです。
さて、なぜかアクセス数が多い「管理人の生態」シリーズ。
呆れと失笑を誘いながら続く5回目は「岡山への移住」です。
前回までのあらすじ
妻の出産直前に東日本大震災を経験し、「こりゃ東京で子育てするのは無理だ」と考えた管理人。
適当に大学を辞めて適当に働き、適当に結婚した(最低)のでしたが、そろそろ適当ではいられなくなってきたのでした。
職場がえらいことになった
東日本大震災で衝撃を受けた管理人でしたが、「地震が怖いので今日で辞めます」というわけにもいきません。
震災の翌日、住んでいた阿佐ヶ谷から新宿の職場に行くと、そこは混乱の極みでした。
守秘義務があるので細かいことは書けないのですが、東日本を中心とする社会インフラの企業から委託を受ける業務だったこともあり、もろに影響を受けたわけです。
連日の問い合わせや苦情に根を上げそうでしたし、震災があった月は一日20時間近く働いた日もありました。
しかしこれは嫌だとも思いませんでしたし、辛いとも感じませんでした。
感覚が麻痺していたわけではありませんし、部下やスタッフたちは時間通りに帰れるように配慮していましたが、自分自身は
「こういう状況なのに、幸いにも家族も友達もみんな助かった。ここで自分にできることは何だろう」
と自問しながら少しでも多くの疑問や苦情を解消しようとしていました。
お客様からいただいた優しい言葉に泣いたこともありますし、震災で行方が分からなくなっていた委託元の従業員が生きていたことが判明し、上司と抱き合って泣いたこともあります。
もちろん厳しいクレームをもらうことも多かったのですが、忘れられない経験です。
息子の誕生
震災から二ヶ月ほどして息子が生まれました。
妻が出産するために数日の休みを取るのも難しい状況ではあったのですがマネージャーに三日間の休みをもらい東京から岡山へ。
何と、測ったように二日目に陣痛が始まりました。
「俺のことを待っていれくれたのかなぁ」と感傷的になったことを今でも覚えています。
しかし本当に、お産というのは大変なものです。
管理人は出産に立ち会ったのですが、苦しむ妻を見ているのは本当に辛いものでした。
かける言葉もなく、義母と二人で「頑張れ」と励ましていたのですが、妻が息も絶え絶えに
「充分頑張ってる。これ以上頑張れない」
と言った時、何だか恥ずかしくなってしまいました。
「頑張れ」と言う方は別に自分が頑張るわけではないのです。
それ以来、人を励ます時に「頑張れ」と口にするのはやめました。
岡山への移住
話が横道に逸れてしまいました。
東日本大震災の後、妻が東京に戻ってきました。
話し合いを重ねましたが、やはり東京から出たいという妻の気持ちに変わりはありません。
管理人自身も、東京にいる必要性を感じなくなっていました。
管理人は東京が好きでしたし、震災が起こるまではずっと東京で暮らすつもりでいました。
いつか生まれ故郷の山形に帰るかもしれないが、それはすぐではないと思っていたのです。
ところが震災が起こったことで、漠然としたその計画も変わってしまいました。
選択肢としては
- 管理人の実家がある山形に帰る
- 妻の実家がある岡山に帰る
のどちらかです。
管理人としては山形に帰りたいのは山々でしたが、原発事故のこともあり、最終的には岡山への移住を決断したのでした。
(続く)