こんばんは。SMEです。
よく知らないことを、ネットで検索して「分かったつもり」になっていませんか?
高度情報化社会では知識が消費される
ここ10年ちょっとで、インターネットで得られる情報は驚くほど増加しました。
管理人が20代だった頃ももちろんインターネットはありましたが、スマートフォンもまだ黎明期でした。
そのため出先で調べものをする時は一苦労したものです。
今はちょっとした調べものでもスマートフォンでサクッと検索できる。
便利な時代になったものです。
しかしその反面、誰もが「ちょっとした調べものをしたい」という欲求に対する我慢のレベルが低くなり、結果として、「調べたものを深く咀嚼せず、分かった気になって忘れてしまう」ということが常態化しているように感じます。
昔であれば苦労して得た知識をあまりにも簡単に得られてしまうため、ありがたみが薄れ、知識を消費してしまうわけです。
分かったつもりの怖さ
管理人自身もインターネットが大好きで、その恩恵をこうむっている一人です。
また「苦労は大切だ」というつもりも、「昔はよかった」というつもりもありません。
気になったことは調べて理解する、それも素晴らしいことだと思います。
しかしながら一つだけ言いたいのは、「分かったつもりになることは恐ろしい」ということです。
インターネットで得られる情報は、手に入れやすい反面簡易なものであることも少なくありません。
中には誤った情報が独り歩きしているものも、明らかに主観的なものもあります。
受け手に情報を取捨選択できるだけの知識があれば問題ないのですが、インターネット上の情報は誰でも見ることができます。
そのため、情報の取捨選択ができないままインターネット上の情報を見て、「分かったつもり」になってしまうことがあるわけです。
分かったつもりになるとそれ以上ものごとを調べようという気になりません。
しかしながら知識は浅薄です。
そして浅薄な知識のまま、その情報を伝達し拡散してしまいます。
結果として、誤った情報、あるいは誤っているとは言えないまでも極めてグレーな情報が蔓延することになってしまうわけです。
分からないことを恐れるな
誤解を恐れずに言えば、「何かが分からないと理解していること」は、「分かったつもりになってしまうこと」よりもずっと良いと管理人は考えます。
ソクラテスが「無知の知」を語ったように、我々はこの世界の全てを知ることはできません。
そうであれば、分からないことを分かったつもりになるよりは、分からないことがあると自己認識できている方が健全に思えます。
自分の話をすれば、管理人は本が大好きですが、「一時間で分かるなんちゃら」「マンガで理解するかんちゃら」といった本は読まず、原著に当たるようにしています。
(海外の本は訳されたものを読みますが)
その結果、理解できなければ今のステージや、蓄積された知識を見直すことができます。
今の時代、単なる知識を得ることは容易化しているかもしれません。
しかしその知識を自分が真に理解し、正しく使うことができるかを判断することは難しくなっているのではないでしょうか。
だからこそ「分かったつもり」にならず、自分が何を理解しており、何を理解していないか、知識だけでなく知恵を養うことが重要です。
それでは今日はこの辺で。
明日は「給与を下げればロイヤリティは下がる」を予定しています。