恒例となりました「ビジネスパーソンが読みたい本」。
読者の方からも「紹介された本を読んでみた」というお声もいただくことが多く、大変ありがたく思っています。
今日は椎名誠の「哀愁の町に霧が降るのだ」をご紹介します。
広範囲に渡る椎名誠の著作
椎名誠といえば幅広いジャンルの著作で知られます。
SFのみならず自伝的な小説、「スーパーエッセイ」、紀行文学に実験的な短編、そして絵本だったりと、現代の日本文学界では珍しいほど幅広いジャンルで活躍している作家です。
そんな椎名誠も今年(2019年)でもう75歳になるというのが何だか信じられませんが、いまだに元気で数多くの著作を発表しています。
エンターテインメントだけでもなく、純文学だけでもなく、その分知名度の割に受賞が少ない作家ではありますが、一読者の立場からすれば大変面白い、著書が出るのが楽しみな作家の一人です。
管理人が通読を繰り返している「哀愁の町に霧が降るのだ」
そんな椎名誠の著書でご紹介したいのが「哀愁の町に霧が降るのだ」です。
実は管理人はこの本をボロボロになるまで読み込んでいたりします。
本棚を見回してみても、ここまでボロボロになっている本は見当たりません。
管理人は割に綺麗に本を読むほうだと思いますし、実際ほかに再読を繰り返している夏目漱石や沢木耕太郎、村上春樹らの著書を見ても、さほど傷んでいる感はありません。逆にいれば管理人がそれだけこの本、「哀愁の町に霧が降るのだ」を繰り返し読んでいるということ。
少なくとも通読した回数で言えばダントツでしょう。
それだけこの本が面白いということなわけですが、それは初めてこの本を読んだ10代終わりの頃だけではなく、20代になっても、30代も半ばを過ぎても変わっていないのです。
果たしてそれはなぜなのか。
どうしてビジネスパーソンとしてそれなりに忙しい日々を送っていても、繰り返し「哀愁の町に霧が降るのだ」を読んでしまうのでしょうか。
我々は過去の蓄積で生きている
「哀愁の町に霧が降るのだ」で描かれているのは、椎名誠自身が20代であった頃の、仲間達との共同生活です。
椎名誠自身が37歳の頃(というと現在の管理人と同年齢ぐらい)に書かれた本ということもあり、10数年前のことを回想しながら小説は進みます。
これが良いのではないのかと管理人は思うわけです。
30代も半ばになって振り返る20代の若さというのは、それなりに生々しさが消えています。
少なくとも自分たちの、若さゆえの愚かさのようなものを、なんとなく面映ゆいぐらいの気持ちで眺めることができます。
これが20代のうちにということになると何とはなしにポーズを取ってしまいますし、かといって40代を過ぎると「あの頃」の気分を忘れてしまうような気もします。
そうなってしまうとこの小説で描かれる若々しさ、サウダージのようなまだ見ぬ懐かしさのようなものは出得ません。
もちろん未来を見据えることは大切です。
しかしながら結局のところ、我々は過去の蓄積でできているのです。
「哀愁の町に霧が降るのだ」で描かれるシーンがいくつになっても美しく見えるのは、我々が「哀愁の町に霧が降るのだ」で描かれるシーンを、年齢とともに自分の過去に重ね合わせることができるからかもしれません。
それでは今日はこの辺で。
明日は「電卓を持ち歩け」を予定しています。