おじさんと「読点」。
別に人生の話ではありません。
外来語や流行語以外にも、日本語ってここ数十年で少しずつ変化しているんですよね。
日本語の変化
年齢が上がっていくに従って、若い人が使う言葉がどうも耳障りになってくるものです。
自分たちも10代の終わりや20代の初め頃は流行語を使っていたのに、会社でもある程度の立場になって落ち着いてくると「日本語の乱れ」が気になってきたり、そこまでではなくても若い人が使う言葉についていけなくなったりする。
若い頃に「チョベリバ」(化石語)とか言っていたおじさんやおばさんが
「『分かりみ』とか言われても分からない!」
と怒り出すわけです。
まぁ人類はきっと有史以来ずっとこうしてきたわけで、これからもずっとこうしていくのでしょう。
それでなければ我々はいまだに「あなおかし」とか言っていたわけです。
「進化」かどうかは分かりませんが、言葉が「変化」していることは間違いありません。
おじさんの文章には読点が多い
ネットでたまに見かけるのが
「おじさんから来るラインは読点が多い」
という若い人の声です。
これは管理人も実際に若い人からラインなどのチャットツールを見せてもらって、「本当に読点が多い…」と実感しました。
何と言いますか、大げさに言えば文節ごとに読点があるような感じです。
「今日は、とても、楽しかったよ。また、ご飯、行きましょう!」
といった文章で、さらにこの後に変な絵文字ないし顔文字が入るわけです。
(さらに言うとエクスクラメーションマークが赤い絵文字)
これでは「おじさんから変なラインが来るんだよね〜」と若い人の間でネタになってしまっても不思議はありません。
では、なぜおじさんのラインには読点が多いのでしょうか?
文章から読点が減っている
管理人は本を読むのが好きです。
先日も池波正太郎の食エッセイを読み返していたのですが、その時にふと思ったのです。
「何か、読点がやたらに多いな…」
そう思って改めて最初から読んでみると、本当に読点が多い。
極端に言えば文節ごとに読点があるのです。
読んでいた本が書かれたのはおよそ40年以上前。
池波先生だけが多いのか? こういう文体なんだっけ…と思って同じ頃に書かれた安部公房やら東海林さだおが文章を書き出した頃のエッセイやら司馬遼太郎やらを読んでみると、どれもこれも読点が多い。
管理人は言語学者ではないので「現代の作家と比べて読点がどれだけ多かったか」とカウントしたわけではありませんが、少なくとも現代の感覚で言えば文章に読点が多すぎるように感じるわけです。
これはとりもなおさず、「現代の文章からは読点が減っている」ということであるわけです。
変化に対応できるか
管理人は今年(2019年)で37歳になるわけですが、自分たちが子供の頃に教科書などで親しんでいた文章というのは、恐らく今よりも読点が多かったはずです。
上記の作家たちが書いた文章も編集者たちが「これで良い」と判断したわけでしょうし、そういった文章を教育現場で教えていた先生方も「これが正しい」と思っていたはずです。
しかしここ40年ぐらいで読点は少しずつ減っているわけです。
これには一つ、インターネットや電子メールの発展もあるでしょう。
ネットやメールでは「句読点を使わずに改行する」文章も多く、それによって流石に句点は使っても読点は使わない、ということも増えたはずです。
文章自体が短くなっていることもあるかもしれません。
背景はともかく、子供の頃に何となく身についた「句点が多い文章」では若い人に笑われてしまうのは確かです。
別に若い人に笑われても構いませんが、それが「変化に気づいていない」「変化についていけない」ということであればビジネスパーソンとしてもマイナスです。
身の回りで起きている変化に気づき対応していくことはビジネスパーソンとして必要なスキルの一つ。
今日からでも文章の作り方を意識してみたいものです。
それでは今日はこの辺で。
明日は「ブログの振り返りと読者の方へ」を予定しています。