「劣化するオッサン社会の処方箋」に思う一流・二流・三流の違い

こんばんは。SMEです。

今日は最近のベストセラー「劣化するオッサン社会の処方箋」の読後感から、管理人が思う一流と二流、三流の違いについてです。

 

 

「劣化するオッサン社会の処方箋」を読んだ

少し前の本ですが、「劣化するオッサン社会」を読みました。

いやぁ、さすが話題になるだけのことはあります。

最初はちょっとばかり懐疑的だったんですが、ぐいぐいと引き込まれてしまいました。

何と言いますか、

「このブログの読者のみなさんにこれを読んでもらえば、俺のブログなんかいらないのでは?」

という思いが少し、いや結構、実はかなり胸を去来したのは事実ですが、まだ読んでいらっしゃらない方にも、はたまた既にお読みの皆さんにもお役に立つように、今日は「劣化するオッサン社会の処方箋」を踏まえて

「管理人が思う一流と二流、三流の違い

ということを書いてみたいと思うわけです。

 

劣化するオッサン社会の処方箋での、「論理思考の愚かさ」という言葉

「論理思考の愚かさ」

管理人が膝を打ったのは、この言葉です。

これはまさに管理人が常日ごろから感じていることでした。

特に管理人が思う「二流」の人は、まさにこれに当てはまると感じたのです。

もちろん、一流、二流、三流といった、ステレオタイプでかつ耳目を集めやすくするために毒々しいとも感じる言葉を使うことの愚かしさは理解しているつもりです。

また著者の名誉のために言えば、著者自身は一流、二流、三流などと浅薄な分類をしているわけではありません。

しかしながら、管理人が悩みながら仮説として立てた理論を裏付けてくれたのは確かです。

管理人が悩んでいたのは次のような命題でした。

  • トップの人とその手前で止まってしまう人には、能力的にさほど大きな違いは見られない
  • むしろトップの手前で止まってしまう人の方が、単純な能力としては高いことがままある
  • 見ていると、トップの手前で止まってしまう人は数値やロジックにこだわりすぎる。数値かロジックの裏付けがないと先に進まない
  • しかし、トップ層は一見して非論理的で、数値を無視した決定を下し、成功することがよく見られる。それは直感力のようなものだ
  • 一流と二流の違いは、「数値やロジックを理解した上で、それを判断基準ではなく一つのファクターとして考えるかどうか」ではないか?

 

「数値」と「論理」から見た一流、二流、三流

劣化するオッサン社会の処方箋の中で著者の山口氏が書かれた

「論理思考の愚かさ」

という言葉は、まさに管理人が感じていたことでした。

つまり、

  • 三流は数値や論理を理解しない
  • 二流は数値や論理の裏付けがないと動かない
  • 一流は数値や論理の意味を理解しているが、それだけを判断の根拠にしない

ということなわけです。

こんなことを書くと批判をいただくかもしれませんが、管理人が感じるのは、この「二流」の人には

「自分は数値を理解して論理的に話しているからビジネスパーソンとして優秀だ」

と思い込んでいる人が多い、ということです。

 

そのため、三流の人が勉強して一流になることはあっても、二流の人が

「俺はこのままじゃずっと二流だ。一度、論理や数値を捨てなきゃ」

と一念発起することは非常に少ないと感じています(あくまで管理人が経験した狭い範囲の世界のことですが)

しかし数値や論理を理解できる能力のある人が一度それを捨てることで得られるものがあるのではないかと管理人は考えるわけです。

 

 

「逃げる勇気」と「負ける技術」

劣化するオッサン社会の処方箋には「逃げる勇気、負ける技術」が必要だとも書いてあります。

これもその通りで、極端なことを言えば「オッサン」たちが部下に「逃げさせない・負けさせない」ことが過労死や自殺を生むのでしょう。

著者はノーベル賞を受賞した山中教授やamazonを例に挙げ、

「さっさと逃げることは悪いことではない」

と伝えています。

この伝で言えば、数値や理論からさえも「逃げる」こと、ロジックでは説明できないことを受け入れて「負ける」ことを認めることで、人は一流の企業人になるのではないかと思います。

 

 

では今日はこの辺で。

明日は「中小企業における『新・日本型雇用』からの脱却」を予定しています。